今の仕事について
早いもので半年が経ちます。
半年かけてようやく
仕事のことが理解できてきたところもあり
まだまだなところもありです。
仕事を覚えるために、
ちゃんと理解するために、
自分のやっていることが間違っていないか
確認をするために、
僕は率先して商談をたくさんしています。
広告やツールの提案から
メディアからのお声がけなどなど、
営業では、飛び込み営業から、
営業先が集まりそうな集会に参加したり。
そういう商談の席では当然
自社のサービスの説明、
市場の話、自分がやっている仕事について
ちゃんと話さなくてはいけません。
ただ、それだけなら、
実はAIにもできるというか、
自分の範囲で用意したことしか話せないので
正直これだけなら
商談の意味はそんなにありません。
良い商談では、
相手が色々と質問をしてくれます。
僕の視点ではない相手の目線で。
聞かれたら答える。
これだけなのですが、
答える内容については、
AIに聞けばいいですが、
それを聞かれるとは!
と思うことが結構あります。
聞かれなければ、
答えられないことなので、
AIに聞くことすらできません。
しかも、聞かれる内容は
AIに聞くまでもないことが多く、
知ってるわい!って思うようなこともあるけれど、
そのことについて深掘りしたことなかった、、
と思うようなことが多いです。
*
最近、スペイン語の勉強をしていると
「〇〇と聞かれたら、〇〇と答える」
みたいな例文をよく目にします。
改めて、こうやって語学を勉強をしていると
なおさら、会話の素晴らしさ
みたいのに気付かされます。
え!?そんな質問する?みたいな例文に
驚くこともたまにあるのですが、
同時にいかに自分が自分に最適化された
つまらない人生を送っているなと
思わされる瞬間でもありました。
聞けばなんでも答えられる時代ですが、
聞かれなければ永遠に
答えるに至ることすらできないことも
たくさんある時代なのかも、
と、ちょっと怖くなりました。
*
親は子供に質問してあげるといい、
なんて言われますが、
あれは本当なんだなぁと。
どうしてそう思うの?
なんで?どうして?
介護の世界で高齢者に対しても
きっと同じだろうし、
職場の上司部下の関係もそうだろうし、
人間が人間の可能性を最大限に感じるのは、
「問う」ことなんじゃなかろうか。
と、昨日の商談でめっちゃ思いました。
そして、自分に最適化された
窮屈な世界においては、
「問う」ことは「不自然な行為」に
なっているのかも、と
思考停止しそうになった夜は
逃げるようにアルコールを接種して
気絶するように寝ます。
疲れたときにいい「問い」って出ない。
そんでもって「いい問い」って
奇を衒うようなことでなく、
再発見というか、
ケアが届いていなかったんだなぁと
反省するような「問い」が多いです。
45年の経験則です。
今日も来てくれてありがとうございます。「毎朝、私に何か質問してください」というプロンプトは面白いAIの使い方かもしれませんね。
25/08/29